ウマ娘プリティーダービー(ウマ娘アプリ)の登場キャラクターであるミスターシービーとシンボリルドルフの史実と活躍についてまとめています。ウマ娘たちの元ネタや史実の活躍をサクッと確認したい方は参考にご覧ください。
ウマ娘列伝 目次
ウマ娘列伝 -各世代ごとの活躍- | |
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1977世代「マルゼンスキーの軌跡」 | 1983~84世代「救世主と皇帝」 |
1987~88世代「芦毛の頂上決戦」 | 1990~93世代「世紀の対決と奇跡」 |
1994~95世代「日本を震わす衝撃」 | 1996~97世代「女傑の時代」 |
1998世代「最強世代」 | 1999~00世代「覇王と勇者」 |
ウマ娘列伝 1983~84世代の史実
主要ウマ娘 | |
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日本競馬の国際化
1970年代から地方と中央での交流が盛んに行われるようになった影響か、1980年に入ると次は国際化を目指すようになりました。
1981年に国際招待競走であり、日本で初となる国際G1レース「ジャパンカップ」が設立。国内最高賞金額を誇る競走となったことも注目を集める要因のひとつでしたが、何よりも「日本の競走馬が世界にどこまで通じるのか」という好奇心が多くの関係者や競馬ファンたちの目を惹きつけました。
記念すべき第1回目のジャパンカップは国内産馬が8頭。外国産馬が7頭という割合で開幕され、しかしレースでは上位入着を全て外国産馬が得るという「世界の強さ」を知る結果となってしまいました。
翌年の第2回でも外国産馬が上位入着を独占し、日本の競走馬は勝てないのかという諦観が漂うようになっていました。
ミスターシービーの登場
そんな折にデビューしたのが、ミスターシービーです。
当時は、新馬戦でこそ先行で余裕の勝利を見せるものの、2戦目では大きく出遅れた上に掛かって前を強引に追いかけ、クビ差の辛勝。3戦目にも大きく出遅れてしまうなど荒すぎる気性が問題視されていました。
しかし、その気性と持ち合わせた才覚から追い込み戦法への適性があることを見出した吉永正人騎手により、共同通信杯、弥生賞の重賞を2連勝。期待の新星として1番人気に推されながら、皐月賞に挑むこととなりました。
1993年皐月賞にはカツラギエースやメジロモンスニーなどの優駿の卵が揃うなか、天候は生憎の雨かつ不良バ場での出走。追い込み戦法を扱うミスターシービーとしては不利な状況でのレースとなってしまいた。
しかし、天候とレース序盤での不利を受けながらも向こう正面で徐々に進出し、泥だらけの馬体で猛然と抜け出して2着を半馬身差に抑える勝利を収めました。
タブーを犯したサラブレッド
続く日本ダービーでは、皐月賞での活躍を見込まれて圧倒的な1番人気。レースではスタート直後に出遅れてしまうものの、吉永騎手は慌てることなく1コーナーを21頭中18番目で侵入。当時は「ダービーで勝つには1コーナーで10着以内にいること」と言われていたため、場内はどよめきに包まれました。
しかし、ミスターシービーは3コーナー過ぎから徐々に進出し、4コーナーでは大外に持ち出して追い上げ態勢に。そして最終直線では鋭い末脚で早々に先頭を取り、それまでのセオリーを砕く破天荒な走りで二冠目を掴みました。
当然、ミスターシービーは三冠馬の期待を掛けられる――はずだったのですが。
戦後の日本競馬を築いた神馬「シンザン」以来19年もの間、新たな三冠馬が生まれず、春の二冠を獲得しながらもトラブルが生じて菊花賞に挑戦すらできない名馬たちのこともあり、「三冠馬はもう出ないのではないか?」とまで言われていました。
そんな諦めを裏付けるように、ミスターシービーも夏に蹄を痛めてしまい、夏風邪も合わさって調整が遅れてしまう始末。どうにか出走した京都新聞杯でも、4着という不十分な走りだったため、多くのファンたちはこの時点で三冠馬の夢は無理だと諦めてしまっていました。
そして訪れた菊花賞。三冠馬の夢は諦められながらも1番人気に推されたミスターシービーは、スタートから抑えて最後尾で追走。そのまま2コーナーも殿を維持するという、ダービーを思い起こさせるような常識破りの戦法を見せました。
あの位置から届くのかと心配の声が漏れるなか、向こう正面で吉永騎手は手綱を緩め、坂下からスパートを開始。坂を上りきっても脚を緩めることなく下り坂に入り、大外を通って一気に先頭へと躍り出ました。
京都競馬場の3コーナーからの坂路は過酷なこともあって「ゆっくり上り、ゆっくり下る」のが常識であり、早仕掛けをしたところで脚を使い切り捕まってしまうのでタブーとされていましたが、しかし直線で20頭の追い込みを受けて立つことになってもミスターシービーの脚色は衰えず、どころかさらに加速。3馬身差をつけて勝利を果たしました。
常識破りの奇跡と並んで、ファンたちは19年ぶりとなる史上3頭目の三冠馬誕生の姿を見ることが叶いました。場内実況が「この瞬間に立ち会え、お伝えできた事は本当に幸せです」と語るほどで、当時の感動がどれほどのものか分かろうというのものでしょう。
皇帝「シンボリルドルフ」
文句無しに競馬界の英雄になったミスターシービー。
菊花賞の直後には第3回のジャパンカップが行われることになっていましたが、多くのファンやライバルとなる海外勢からも参戦の期待を掛けられつつも、体調が芳しくなかったミスターシービーはこれを回避して休養に専念することになりました。
外国産馬にも対抗できる期待の星が生まれたことで日本競馬界が沸き立ち、ミスターシービーの復帰がいち早くなるよう望まれていました。しかしその一方で、前年度の盛り上がりを塗り潰すような衝撃が1984年の競馬界に広がりました。
皇帝の名を冠する、シンボリルドルフの登場。
デビュー前から才覚を見せていたシンボリルドルフは、デビュー戦とオープンでクラシック戦線を見据えた調教走りで3連勝。続く弥生賞でも圧倒的な走りで勝利を収め、無敗でクラシック三冠へと挑むことになりました。
ミスターシービーが着けた競馬界の熱と圧巻の強さで多くの期待を掛けられたシンボリルドルフは、皐月賞、日本ダービー、菊花賞と強豪たちが集うクラシック最高峰のレースでも変わらず快勝。前人未到の「不敗の三冠馬」となり、絶対の皇帝として知られるようになりました。
シンザン以来の停滞から一転して、2年連続で生まれた三冠馬。毎日王冠でミスターシービーが復帰したこともあり、1984年のジャパンカップではついに日本の競走馬が外国に打ち勝てるのではないかと期待が高まっていました。
三冠馬の対決と意外な結末
そしてその期待通り、1984年ジャパンカップで救世主「ミスターシービー」と皇帝「シンボリルドルフ」の激突。三冠馬同士が直接対決するのは史上初であり、前年度までの諦めムードとは打って変わりファンたちは日本が誇る三冠馬がどう外国産馬に勝つのか目を輝かせていました。
そして−−ジャパンカップで優勝を果たしたのは、念願の日本競走馬。
しかしその名前は、ファンが期待していたミスターシービーでもシンボリルドルフでもなく、彼らの影に隠れつつも果敢に戦い続けていたカツラギエースでした。
シンボリルドルフが3着、ミスターシービーが10着と敗北を喫する中、日本競馬関係者やファンたちの悲願である日本競走馬初のジャパンカップ制覇を成し遂げたカツラギエースでしたが、ファンの思惑とは違った結果にスタンドは騒然となるどころか、むしろ唖然として静まり返っていたそうです。
19年来の三冠馬となり、日本競馬に希望をもたらしたミスターシービー。
前人未到の「不敗の三冠馬」となり、その後も活躍し史上初の七冠馬にも至ったシンボリルドルフ。
日本競馬の悲願であるジャパンカップ制覇を達成し、外国と戦えることを証明したカツラギエース。
現役を引退するまで近代競馬に多大な影響を与え続けた彼らの偉業は、今もなお衰えることなく語られ、以降の競馬ブームの下地を作り上げたとして憧憬を集めています。
「そうか、タブーは人が作るものにすぎない」
――2012年菊花賞CM
「競馬に絶対はないが、”その馬”には絶対がある」
――2013年ジャパンカップCM
「あの”ジャパンカップ”を想い出します。”ジャパンカップ”の感動を!!」
――冬沢牧場、カツラギエースの墓碑銘
次世代ウマ娘の史実
1987~88世代「芦毛の頂上決戦」
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「名トレーナーへの道!」
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ミスターシービーに似てる黄色い服のウマ娘はシガーブレード
モデルはミスターシービー産駒のシャコーグレイド
ミスターシービーの偉業って三冠だけじゃなかったのか
そら伝説って言われるわ